Day3の備忘メモ
ナイキ
- 数字など売上などへの影響は少し時間ズレを伴って生じる(すぐには分かりにくい)
- マイナスのことを想定内に持ってこないといけない
- 自分たちがどう見られているか、アイデンディティが保たれているか →MCの大事な役割。
- リスク対応は本気度(形式+実行)
- 問題が起こっている中でもナイキはグローバルに拡大路線 →効果的な広報戦略≒手の内に収めている
- 「ブランドのアイデンティティって、異物が入ったら壊れる、そして、壊れた器には情報が溜まらない。」
- ナイキのターゲットは若い人≒LTVが長い
トヨタ
- 品質管理ではなく、危機管理の問題
- ものづくり=技術力+品質意識+工夫・改善による価値創造などトータルの想い
- 「Made in Japan」=単なる国産を示すのではなく、「丁寧・安心・信頼」の象徴。
- 危機回避の方策
- 緊急止血
- 状況を軽く見ない
- 自らのコミュニケーションを絶えず省みる
- 従業員や顧客からの情報を歓迎し、集めた情報を古びさせない
ナイキ
1989年から1999年までのナイキの広報戦略を振り返る内容で、【リスク対応と広報の重要性】がテーマでした。
わたし的にはケースながら、ナイキの凄さを感じて非常に印象に残っています。
ナイキについては知ってるでしょう

ナイキ(Nike, Inc.)は、アメリカ・オレゴン州に本社を構える世界最大級のスポーツ用品メーカーで、1964年にフィル・ナイトとビル・バウワーマンによって創業され、当初は「ブルーリボンスポーツ」という社名で日本のオニツカタイガー(現アシックス)の製品を販売していました。
1971年に現在の「Nike」に社名を変更し、「スウッシュ」ロゴと共に独自ブランドを展開。スポーツウェアやシューズのほか、「Just Do It」などの強力なマーケティング戦略でも知られ、グローバルブランドとして不動の地位を築いています。
ケースの内容
ナイキは1990年代、主に東南アジアにおける協力工場の劣悪な労働環境(低賃金・長時間労働・虐待など)に対し、批判的世論に晒された。特に1989年の報道を皮切りに、NGOや学生団体、メディアによるキャンペーンが激化。
当初、ナイキは「委託先の責任」として無視する姿勢だったが、1997年のアジア通貨危機や国内市場での競争激化なども相まって、企業イメージは大きく毀損された。これにより、1998年以降は企業責任部を設置し、広報戦略を転換、労働環境の改善と情報開示に取り組むようになった。という流れのお話です。
問題の発端(1989年〜)
- 1989年、アメリカのメディアがナイキの協力工場における劣悪な労働環境を報道。
- 東南アジア(インドネシア・ベトナム・中国など)の工場で、40℃近い高温下での長時間労働、スニーカーの靴底で従業員が殴られるなどの報道がされる。
- ナイキは「工場は委託先であり、当社は直接運営していない」として、当初は無視・否定の姿勢。

社会現象化(1997年)
- NGOや学生団体による抗議活動が加速。
- ニュージャージー州の小学生がブロードウェイでナイキを批判する劇を上演。
- 米議会に嘆願書が提出され、40名を超える下院議員が署名。
- 「国際ナイキ抗議デー」が28の州・カナダ・オーストラリアなど12か国で開催。
- 主要紙(NYタイムズ、WSJ、ヘラルド・トリビューン)が連日報道。
- 映画監督マイケル・ムーアがナイキを批判対象に取り上げ、「悪の巨大企業家」と呼ぶ。
この時期を境に、問題は「一過性のニュース」から「国際的な社会運動・ストリーム」へと変質。
ナイキの対応と広報戦略の転換(1998年〜)
- 企業責任部の新設(VP:マリア・アイテル)
- MESHプログラム導入:製造・環境・安全・健康への対応強化。
- 第三者による監査(アンドリュー・ヤング/アーンスト&ヤング)。
- 労働者向けに行動規範・研修・ポケットガイドの提供。
- 報道対応として広告・広報発信も強化。
これにより一定の評価は得られたが、「PR目的では?」という批判も根強く残る。
それでもナイキは成長(1990年代末)
財務的には1997年をピークに若干の調整があったが、依然として高水準の売上と利益を確保。
社会的批判の中でも、ナイキはベトナム・フィリピン・イタリア・中国での工場・販売拠点を拡大。
1997年にはナイキ・アジアを設立。
初動の難しさ
1990年代はほんとうにナイキめっちゃ叩かれてたみたいです。でもアメリカ国内が中心で日本ではあまり重要視されていなかった気がします。
さて、正直なかなか難しい問題だと思います。
急にネガティブな報道出ると企業はビビりますよね。「こんなん起こったら逃げたなるわ」ってなるの、分かりますわ。「うちらは工場運営しとらへんし、あくまで委託業者の責任や」ってことで、無視・否定のスタンスを取るのも分かる気がします。
でも、それが逆に「責任逃れやないか」「血も涙もない冷たい企業や」って見られて、さらに世論の怒りを買ってしまった、って流れですね。
で、実際に報道されてた内容が、
- 40℃近い暑さの中で、靴を履いてへんことを理由に走らされて、何人かが倒れた
- 125人の作業員が、ナイキのスニーカーの靴底で殴られた
- ミスした作業員が、床をなめさせられた
…こんなん出てて、企業がダンマリやったら、消費者としては「ふざけんなよ」ってなるのも、そりゃ分かりますわ。
正義感に火がついて、関係ないはずの団体までが抗議イベントやり始めて、「懲らしめたれや」の連鎖が社会全体に広がっていく。まさに渦巻きです。
いったん炎上したら、企業としては余計に表に出にくくなるというまさに悪循環です。
勝手な想像ですが、
‐法的リスクを中心的に議論して「もう少し様子見るか」
‐「他の会社も同じようなことしてんのに、なんでうちだけなんだよ!」
‐「俺たちのやってることは地元の雇用を生んでんだから、様子見てれば収まるよ」
なんて、思考停止から徐々に静観側によっていってしまったのかなぁと。
でもそれはつまり、「自分たちがどう見られているか」を分かってなかったってこと。
ナイキって当時は、急成長でトップにのし上がったブランドだから攻めのマーケティングはめちゃめちゃ強い。
でもいざトップにのし上がったけど、「トップとしてどう見られるか」は想定してなかったんちゃうかなと。
さらに、大きくなったことで一般の顧客だけじゃなく、活動家や世間の目といった“想定外の相手”もコミュニケーションの相手に加わってくる。
そういったことも含めて、リスク回避的なコミニケーションは持ち合わせていなく、後手後手になったということじゃないですかね。
そして、社会的なうねりにまで発展した1997年が転換点になりました。
1998年以降。ナイキついに動く。
ケースにもある通り、それっぽい改善策を打ち出すわけです。
ただ、「これPR目的やろ?」「カッコつけてるだけやん」みたいな反応も、当然のようにあるわけです。
それはしょうがないわけで、でもしっかりちゃんと部署つくって、社内に責任構造を作ったっていうのは、本気度を見せるサインにはなったと思います。
で、ちゃんと実行も伴ってる。
委託業者には、「ちゃんとせぇよ」って事前に目標を提示して、
それでも改善が見られへんとこは、バッサリ契約打ち切った(10社!)っていうから、これは結構な覚悟やったと思います。
ポイントはここですわ。
「自分たちがどう見られているか」をようやく意識し始めた。
- それまでは対症療法的で、
- とりあえず火消しで、
- 見られ方なんて気にしてなかったナイキが、
- ようやく、情報をどう届けるか、どう感じ取られるかまで手の内に入れ始めた。
そして、利益が落ちてる時の対応やなかったってのも重要で、
実際は売上も利益もピークに近い状態で、
「儲かってるし知らん顔でいけるやろ」って判断もできたはずなんですけど、
それでも動いたのは、ちゃんと理由がある。
ナイキが動いた理由(いくつか推測できるけど)
- グローバルブランドとしての評判を守る危機感
- 消費者・株主・従業員のあいだで、企業倫理への目線が上がってきていた
- 情報戦の中で、「黙ること自体がリスクや」と気づいた
- 採用活動でも「おたく、ブラックらしいけど?」と詰問されるようになってきた
なかでも大きいのはやっぱり、
「ナイキのターゲットは若者」ってこと。
ティーンエイジャーとか、若いアスリートとか、そういう人たちがナイキの一番のお客さん。
つまり、LTV(ライフタイムバリュー)がめちゃくちゃ長い。
短期の売上なんかより、長期的な信頼やイメージが一番大事なんですよね。
さいごに ナイキすごいっすわ。
授業の中で講師が言ってたんですが、
「ブランドのアイデンティティって、異物が入ったら壊れる。壊れた器には情報が溜まらへん。」
――このたとえ、めっちゃしっくりきました。
ナイキの対応って、まさにその“壊れる寸前”で踏ん張った例だと思います。
そこからは双方向コミュニケーションに舵を切って、どう伝えるかだけやなく、「どう伝わるか」を大事にし始めた。
それが分かるのは、問題が表面化してる最中でも、ナイキはしれっとグローバル展開を強めてるってとこです。
- ベトナム(、イタリア)、フィリピンで生産体制を拡大
- 1997年にはナイキ・アジアを設立、中国での立場も強化
普通ならブレーキ踏みそうなタイミングで、ナイキは堂々と「前進」しとるんです。これってすごないですか?
つまり、
アメリカだけやなく、世界でどう見られるかを意識しながら、
ネガティブな風も受け止めて、自分らでコントロールして、“広報”を武器にして成長していくっていう、ナイキの意地と覚悟。
授業でも悪いことやリスクも全て「手の内に収める」とありましたが本当にその通りで、広報戦略の鏡だと思いました。
ナイキ、すごいっすね!
あらためて、ちょっと好きになりました。
……でも、靴は買いません。
デザインは良いけど、幅が狭くて足が痛くなるから、わたしはやっぱりニューバランスかアシックスかミズノ派です(笑)
トヨタ リコール 豊田氏、ワシントンに行く
こちらも【リスク対応・広報の重要性】を考えるケースとなります。
これは有名な話ですね。トヨタのケースは複数の授業で取り上げられています。
2009年の後半から2010年にかけて、フロアマットとかアクセルペダル、ブレーキの不具合が重なって世界で900万台超える大規模リコールになりましたが、その時の原因究明とか情報公開が不十分でめっちゃ批判されたやつですね。
トヨタブランドも無傷ではいられませんでしたが、その後の対応で信頼が徐々に回復していきました。
ケースの内容
今回は時系列でまとめてみました。
2007年9月|初期兆候と“こっそり回収”
- NHTSA(米運輸省道路交通安全局)がカムリの事故を調査、フロアマットが原因でペダルが引っかかったと結論。
- フロアマットを“こっそり回収”し、問題を「ドライバーの使い方が悪い」と判断。
2008年|リーマンショックの影響
- 世界的な不況により自動車販売が冷え込みます。
- 「2010年グローバルビジョン」で世界シェア15%の達成を急ぎ、コスト削減とスピード開発を強化(例:設計から市場投入まで12ヶ月)。
2009年8月〜2010年1月|死亡事故・リコール拡大・初動対応の誤り
- 2009年8月:カリフォルニアでES350が暴走し、4人が死亡。911通話の録音が報道され、全米で大きな騒ぎに。
- 2009年9月:フロアマットの不具合により380万台リコール。
- 2010年1月:アクセルペダルの戻り不良でさらに230万台リコール。プリウスのブレーキ問題も発覚。
2010年2月|豊田章男社長が英語で議会証言/SNS活用開始
- 2010年2月23〜24日:米下院で、社長の豊田章男が英語でスピーチ。「成長が速すぎた」「責任は私にある」と述べ、品質改善への誓約を行います。
- 一方、議員からは「反省が浅い」「具体的でない」といった厳しい反応も。
- 同時期にトヨタはYouTubeやFacebookなどSNSで、豊田社長の動画、修理手順、FAQなどの情報発信を開始。
2010年3月以降|日米の“温度差”と回復の兆し
- トヨタは無利子ローンやリース契約などの販売促進策を打ち出し、3月の米国販売は前月比+40%の急回復。
- 品質責任者の新設、安全委員会の設置、社内改革などを実施。
- 日本国内では「騒ぎすぎでは?」という論調も多く、米国の社会的・政治的反応との“温度差”が見られました。
2010年4月以降|追加リコールと信頼回復の模索
- GX460の販売停止、シエナのリコール、過去最高額の罰金(1,640万ドル)などが相次ぎます。
- 一方で、NHTSAの予備調査では「多くの事故はブレーキ未使用(=運転者ミス)」という見解も報道され、トヨタにとってやや有利な見方も出始めます。
- トヨタは新型モデルのテスト期間延長、エンジニアの再配置など、構造的改革に着手しました。
リコールの原因は、起こるべくして起こった
初動の最大の失敗は、製品設計や配置に問題がある可能性を十分に検討せず、「顧客の使い方の問題やろ」と早々に決めつけてしまったことです。
2007年9月のカムリの衝突事故では、フロアマットにペダルが引っかかるという事案がありましたが、
このときトヨタは最大5.5万台に設置された全天候型マットを“こっそり回収”していました。
その上で、「ドライバーがマットをちゃんと敷いてへんかったんや」という対応に出たのは、完全に判断ミスでした。
結果として、
時期 | 問題 | 台数 |
---|---|---|
2009年9月 | フロアマットにペダルが引っかかる | 380万台 |
2010年1月 | アクセルペダルの戻り不良 | 230万台 |
その後 | プリウスのブレーキ問題等も加わる | 米600万台/世界850万台超 |
という大炎上に至ります。
「俺ら(トヨタ)の製品に問題があるわけあらへんやろ。使い方が悪かっただけちゃうん?」と、少数の意見や兆候を軽視してしまったことが、結果的に大きな代償となりました。
この軽視までの流れとしては、①→④みたいな感じなんですかね。
①トヨタは“品質”で世界一に
- 「トヨタ生産方式(JIT・カイゼン・自働化)」により、創業期から高品質・高信頼性を徹底。
- 米国でも燃費や信頼性の高さが評価され、高級車市場にも「レクサス」で進出。
- 2003年に時価総額で世界1位、2008年には販売台数でもGMを抜き、名実ともに世界一に。
②急成長にともなう“過信”と“現実”
- 2000年代後半、販売シェア15%を目指し、設計期間を12か月に短縮するなどスピード重視へ。
- 過去の成功体験から「多少の問題は現場で吸収できる」「顧客の誤使用で済む」と慢心・過信が芽生えます。
- リコール増加にも、「他社もある」「そこまで大した問題ではない」と相対的に甘く見た傾向が見られます。
③リーマンショックによる売上偏重
- 世界的不況の影響で、売上維持とコスト削減が最優先に。
- サプライヤーによる部品材質の変更や検証不足が重なり、設計上の不具合が見逃されていきました。
④兆候とメッセージの軽視が致命傷に
- カムリのフロアマット問題(2007)を「こっそり処理しといたらええやろ」で終わらせた。
- 2009年の死亡事故以降も、「マットの敷き方が悪かっただけやん」と本質から目をそらしていた。
さすがのトヨタでも、急成長の中で、全従業員に意識を浸透したり、認識を維持させるのは難しいですよね。
ターニングポイント 豊田章男社長の登場

豊田社長は後日談として、
- 「もはや社長には残れないと思っていた」。しかし同時に「“会社を救えるかもしれない”と考える自分がいた」
- ワシントン滞在中、毎日12時間以上の模擬練習をこなし「逃げない・誤魔化さない・嘘をつかない」を行動指針とし証言に臨んだ。
- 「自分はただの“車好き人間”である」と強調するため、CNN「ラリー・キング・ライブ」に出演。そこでの率直なやり取りにより、“車への愛”というパーソナルな側面が伝わったと感じた。
と語っていました。
ある意味、「正直に」。ある意味、「役者を演じた」という感じでしょうか。
創業家社長という象徴的存在が、英語で直接スピーチしたこともあり、トヨタの真剣な姿勢は広く伝わったと思います。
従業員にも「あかんわ。作ることばっか夢中になってて、お客さんのこと全然見てへんかった。これからは、ちゃんとお客さんが何求めてるか向き合わなあかんわ」という空気が広がったのではないでしょうか。
その後、品質重視の体制への転換が即座に始まりました。
2010年4月、『コンシューマー・リポーツ』がGX460を「危険」と警告した際には、即座に世界で販売を停止するという具体的な行動が見られました。
言うだけではなく、実行してこそ意味があるという、有言実行の姿勢が貫かれています。
マーケティング面でも、テレビCM・Web・SNS・コールセンターなど、あらゆる媒体を駆使し、
24時間対応の専用ホットラインなど、双方向のコミュニケーションを重視した“危機対応の教科書”のようなアプローチが実施されました。
(ちなみに最近、うちにもエンジン系のリコール修理の通知来ましたけど、ハガキ1枚だけでした…笑)
さいごに ものづくりって何だろう?
授業でトヨタが良く言うけど、そもそも「ものづくり」って何?という話題が出ました。
その時は正直よく分からないまま終了しましたが今思うと、ものづくりって単なる技術や生産だけじゃなく、品質や工夫、そして“想い”が詰まったものなんじゃないかなと思います。
似たようなものとして、「Made in Japan」は、単に日本で作られたという意味ではなく、「丁寧・安心・信頼」の象徴でもあるわけです。
「原因が特定できないなら黙っていよう」ではなく、
「まだ原因は分からないけど、こんな事例あって、危ないかもしれないから気をつけて」と伝えること。
顧客に寄り添い、想いでつながる。
そんな姿勢こそが、「ものづくり」なのかもしれませんね。
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